古谷実『シガテラ』最終回

17年前に、連載されていた『シガテラ』の最終回を読んだ後の文章。

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前回から一気に時間が飛んで、
南雲さんのお腹は大きくなっており、
オギ坊は頼りなさげでもあるが、サラリーマンとして社会に揉まれ、
新しい可愛い彼女が出来ている。
ト書きで南雲さんとは4年付き合ったことが記される。

 

しかしなんで別れたのかは分からぬまま。
肩すかしを食らわされた反面、
誰もが、南雲さんという妄想に近い理想的な女の子の旦那になれる可能性も生まれた。
つまり、3億円が当たるくらい超ラッキーな出来事は、
オギ坊だけではなかったのだ。

 

しかし、サラリーマンとして至極まっとうなオギ坊、新しい彼女と戯れるオギ坊を見るにつけ、
高井や南雲さんのバイト先の変態との決定的な乖離を無視することは出来ない。
その可能性は限定された中で有効なだけなのだ。
つまり「普通であること」「まっとうであること」の中で有効なのだ。

 

では「普通であること」「まっとうであること」とは?
高井や南雲さんのバイト先の変態がなぜダメなのかは一目瞭然だろう。

 

それは残酷な線引きである。
確か佐々木敦は「クイック・ジャパン」で、“運命”という言葉で古谷実論を展開していた。
哀しい運命が、哀しくて残酷なのではなく、
どうあがいても、どうにもならない運命そのものの本質が残酷なのである。
つまり、ラッキーなやつは無根拠にラッキーなのであり(『シガテラ』のオギ坊)、
不幸な奴は理不尽に不幸なのである(『ヒミズ』の住田)。
シガテラ』と『ヒミズ』はコインの裏表で、同じテーマが通底しているのだ。

 

シガテラ』の最終回は、
オギ坊にとって、南雲さんとの交際が唯一・例外の奇跡的な出来事ではなかったことを伝える。
新しい彼女もまた可愛い。
会社の上司らしい人が彼女であるのだが、
どうやらオギ坊は可愛い子の母性本能をくすぐるみたいだ。
オギ坊と南雲さんとのファンタジーはここに完全に消滅する。

 

それが『電車男』とは決定的に違うところだ。
電車男』は徹頭徹尾ファンタジーである。
古谷実はファンタジーを拒絶した。
その態度は極めて倫理的だと思う。

 

しかし出来れば、それを物語として語って欲しかった。
そろそろ、古谷実が真正面から描いてこなかった
「大人」という最大の他者を描くことに着手して欲しい。